2011/10/26

モデル


そういえばラオスに行ったとき、 

首都ビエンチャンである1人の男性に出会った。 

もちろん現地の人なんだけれども、 

流暢な英語を話し、 

見るからに裕福そうな身なりをしていた。 

聞く話によると、 

Lao  Telecommunications(ラオス最大の電話通信会社)に勤めているらしい。 


彼はその首に一眼レフのカメラをぶら下げ、 

いろいろなものを写真に収めている。 

つい最近購入したばかりだと言っていた。 


そんな彼は、 

僕が日本人だと知るや否や、僕の写真を取り始めた。 

東南アジアではまだまだ日本人が憧れの対象なようで、 

ご飯を食べる様子、 

笑顔でピースをしている様子、 

寝転がっている様子、 

歩いている様子、 

終いには何もしていない様子までをもフィルムに焼き付けた。 

夕陽を掴んでみたり、 

明後日の方向を向いてみたりだってした。 


僕はモデルでも何でもないので、 

あれほどカメラを向けらると、 

なんだか少しこっぱずかしい気持ちになった。 


でも、 

時間が経つにつれて、 

写真の枚数が増えていくにつれて、 

そのこっぱずかしい気持ちは、 

だんだんとイラつきや、鬱陶しさに変わっていった。 


たしかに僕は日本人だ。 

髪の毛も適度に整えていれば、 

背丈だって彼よりもずっと高い。 

そりゃあ現地の人にしてみれば、少し珍しいのかもしれない。 


もちろん彼に悪気はないんだろうけど、 

彼は僕を1人の人間としてというよりも、 

1つの対象として、 

まるでブロンズ像かピエロを見るような目で見た。 

人と人との繋がりや一体感というよりも、 

モナリザとそれをみる観光客のような距離感がそこにはあった。 


なんだか寂しかった。 


おそらく日本でも同じような経験をした人は多い。 

たとえば欧米人。 

特に白人。 

それから芸能人、モデル、スポーツ選手。 


彼らは毎日毎日、 

こんな寂しさを感じているんだろうなあ。

2011/10/23

意味


「世の中に意味のないものなどありやしない」

と言われるとなんとなく心が温まるけれども、

「意味のないものはこの世から淘汰されている」

と言われると心にグサッとくる。


物事を多面的に見るというのはこういうこと。

2011/10/22

創造


ものをつくるのって難しい。 
「作る」のではなく「創る」ほう。 
新しく生み出すこと、創造すること、要するにクリエイション。 
ここからは自分の考えを書くので、 
そういったものに耳を貸したくないという人はページを閉じてほしい。 

さて、そのクリエイション。 
自分の中で何かをクリエイトするということは、 
相当難しい行為の中に分類されている。 
なぜかというと、 
クリエイションには豊かな経験や積み重ねが必要だから。 
逆にいえば、 
こういった経験や積み重ねのない人間は、 
物をクリエイトすることができないと考えている。 
仮にできたとしても、 
それはせいぜい月並みで陳腐な創造物でしかない。 
ただのお遊びになってしまう。 

正直なところ、ここまで読んでいる人の多くは、 
何を言ってるんだこいつは、と思っているだろう。 
たしかに自分でもそう感じるので、 
具体的な例を挙げて考えてみよう。 

たとえばニュートン。 
彼はりんごが落ちるのを見て、万有引力の存在を発見した。 
ここでポイントとなるのは、 
りんごが落ちるという重要なイベントが、 
彼にとって「いつ」起きたのか、ということ。 
おそらく彼は、 
りんごが落ちるずっと前から万有引力に関わる研究をしていて、 
自分なりのビジョンを持っていたはず。 
それと同時に、 
万有引力に関する科学的な知識を豊富に蓄えていたはず。 
「もしかしたら地球には物を引っ張る力があるのでは?」 
ぼんやりとでも、そんなことを考えていたときにりんごが落ちた。 
だから彼は「万有引力の存在」を発見することができた。 
というよりも、確信できた。 

彼は頭がいい。 
ただどんなに頭がよかったとしても、 
もし彼が歌手だったら、大工だったら、芸術家だったら、 
万有引力の存在を発見することはできなかった。 

同じようなことはどこにでも当てはまる。 

たとえば作曲家。 
彼らは1から曲を作っているんじゃない。 
今まで聞いたことのある100億の、1000億のメロディーを、 
頭の中にある本棚から引っ張り出して、 
それを繋ぎ合わせている。 
中には1から作っているという人もいるだろうけど、 
実際は上で述べたようなことを無意識のうちにおこなっているだけだ。 

いい曲をつくる人っていうのは、 
たいていたくさんのコードを知っていて、 
たくさんの音の運び方を知っている。 
だから豊富な知識があればあるほどそこには柔軟性が生まれて、 
いい曲ができる。 
誰もが想像しなかった斬新なメロディーが現れる。 
突拍子もないようなアイディアっていうのは、 
堅実な知識のコレクションによって支えられている。 

最近は、 
イノベーションだとか、クリエイションだとか、 
そういった類の言葉が盛んに使われ、重要視されている。 
教科書をそのまま写したようなものは嫌われて、 
単語を丸暗記するような行為は時代遅れだといわれる。 
でも僕の考えとしては、 
こういう地道な方法で知識をかき集めなければ、 
なにも生み出すことはできない。 
何かを創造することなんてできない。 

頭でっかちな人が多いんだよ、このごろ。

2011/10/14

天才


自分は天才でもなんでもない、 

いわゆる凡人。 


昔は天才になりたいなとも思ったけど、 

今はそれほどでもない。 


エジソンやアインシュタインは偉大な発明をした。 

しかしその裏で彼らは、 

アスペルガー症候群との葛藤を自伝にて綴っている。 


イチローや羽生は過去にない新記録を打ち出した。 

しかしその裏で彼らは、 

常にトップを走り続けることのつらさやプレッシャーを自伝にて綴っている。 


アスペルガーを否定するわけではないし、 

トップを走り続けることが嫌いなわけでもない。 


でも、 

ほどほどのプレッシャーの中で、 

友達と毎日楽しくコミュニケーションをとって笑いあえる、 

そんなしょうもない今の人生が、 

すごく幸せだ。

2011/10/11

ニンニクがジョブズに勝るわけ


僕はニンニクが好きだ。 

すごく好きだ。 

それなのに世の中はスティーブ・ジョブズの死にばっかりスポットライトを当てて、 

ニンニクなんか見向きもされない。 

ニンニクが新聞の一面を飾ることなんてない。 


だけどニンニク好きの僕からすれば、 

スティーブ・ジョブズなんかよりニンニクの方がずっと偉大だ。 

いや、もちろんジョブズは偉大な男だと思う。 

iPhoneだってiPodだって愛用しているし、 

彼の考え方や人生観、発想、交渉術、プレゼン能力、 

どれをとっても素晴らしい。 

ただ僕が声を大にして言いたいのは、 

ニンニクの”方”が偉大である、ということだ。 


考えてみてほしい。 

美味しい料理にはどれもニンニクが入っている。 

逆にニンニクの入っていない料理の中に、 

どれだけ美味しいといえるものがあるだろう。 


結論から言う。 

ニンニクが入っていなくても美味しいものなんてたくさんある。 

ただ大多数はそれを探すプロセスの中に、 

どこか息詰まるような感覚を得たはずだ。 

つまるところ、 

本当は美味しいものをたくさん知ってるのに、 

多くがニンニクを使っている料理であるという現実。 

だから少し無理をして、 

意地でもニンニクを使っていない料理をリストアップする。 

簡単にいえば自分を偽っている。 


ニンニクというのはそれだけ皆に愛されている。 


それと、名前に関してはまるで気にする必要がない。 

ニンニクなんていうとたしかにオシャレではないが、 

それは日本人が「横文字大好き文化」を明治からずっとひっぱってきているからであって、 

ニンニクだってGarlicと表記すれば、悲しいことにオシャレに見えてしまうものだ。 


なんだか長くなってしまったけれども、 

一度公園のベンチにでも座って考えてみてほしい。 

「スティーブ・ジョブズがいない世界」と、 

「ニンニクのない世界」。 

色褪せて見えるのは、 

意外とニンニクの方だったりする。

2011/10/07

AV


インターネット上で、 

AVとかポルノ関係の商品にものすごくお金をつぎ込んでる人がいて、 

その人が、 

「食欲、性欲、睡眠欲は人間の基本だぞ。 そこに金をかけなくて他のどこに使うんだ!」

って力説してた。 


たしかになーって思った。

2011/10/05

カウントダウン


カウントダウン。 

個人的には嫌いだ。 

なぜか? 

カウントダウンには、 

独特の高揚感とプレッシャーが詰まっている。 

簡単にいえば、 

この高揚感とプレッシャーというやつが嫌い。 


具体的な話。 

たとえば大晦日にカウントダウンをする。 

高まる。 

これが高揚感。 

他にもたとえば、 

ロケットの打ち上げ前にカウントダウンをする。 

これが高揚感。 


百歩譲って、 

この高揚感は認めるとする。 

たしかにテンションは上がるし、 

アドレナリンも分泌される。 

心臓の鼓動が速くなるのを感じる。 


しかしもう1つの要素、 

つまりプレッシャー、 

これはいただけない。 

カウントダウンをするということは、 

必然的に「期待」を生み出している。 

この期待がプレッシャーにつながる。 


たとえば文化祭。 

くす玉を作る。 

カウントダウンをすることで期待が高まる。 

しかしうまく開かなかったりすると、 

一気にがっかりしてしまう。 

くす玉なんて「うまく開かない」の代名詞なのに、 

何を今さらがっかりするんだろう。 

たぶんそれは、 

カウントダウンの中に「期待」が込められていたから。 

みんなでカウントダウンをしているうちに、 

自然とくす玉に期待してしまう。 

そして結果が期待に伴わないとき、 

その反動としてがっかりとした気持ちが舞い降りてくる。 

これがプレッシャー。 


なんでこんなどうしよもないトピックについて熱く語ったかというと、 

先日同じような経験をしたから。 


最近よくあるでしょ、 

カウントダウン式の歩行者信号。 

秒数で表示するものもあれば、 

信号の両端にブロックがいくつか表示されていて、 

時間が経つにつれてブロックの数が減っていくやつもある。 

今回は後者。 


カウントダウンだから、 

当然、一定のテンポでカウントされていくわけなんだけど、 

ブロックが最後の1つになったとき、 

急に動きが止まったんだ。 

それでなかなか消えないわけ。 

自分としては次の1テンポで足を進めるつもりでいたから、 

思わずがっかりとしてしまった。 


「期待」していたんだろうね。 

カウントダウンだから。